オタクにとっての学校、学生、ついでに「まなびストレート!」について


ふと、思った。
アニメや漫画、ラノベ等のオタク的カルチャーで学校が舞台になったり、主要登場キャラで学生が多いなのは、学校や学生という存在が殆ど多くの日本人が経験した事がある物だからというのもあるが、オタク自身が全共闘の血を相当濃く受け継いだ子孫だからじゃないだろうか? *1

押井守はオタクの性質や行動を映画「ビューティフルドリーマー」で『永遠に終わらない学園祭前夜』と表したけど、コレってつまり全共闘でいえば、『永遠に終わらない革命前夜』であり、革命や運動、デモ、そうした物の代替行為として、オタクは学園祭や学生生活が描かれた作品を求めているんじゃないだろうか?
どちらもハレの場であり、大人達にあ〜だこ〜だと指示され管理される訳ではなく、自分達が自主的に作り上げていく物でもあるし、どちらも自己の確立や他者との連帯を得られやすいイベントでもある。

そして現実世界において、全共闘と同じく結局革命をなし得る事ができなかったからこそ、オタクは学生生活や学校に拘っているのではないだろうか?
または、余りにもその瞬間がまぶし過ぎたからこそ、鮮烈な記憶として、思い出として残り、今でも執着しているからではないだろうか?

何の為に革命や祭りを求めるのか

そして学生たちが求めたのは、自分が群衆の中に埋もれてしまう状況下で「人間としての真実をとりかえすこと」であった。それがマルクス主義の「疎外」や「革命」といった言葉や思想を借りて表現されていた。

具体的には、近代的なビルでのマスプロ授業ではなく、バリケードを囲んで徹夜の議論や共同作業が行われた。大学側の機動隊を使った学生排除や教授たちの消極的な姿勢が厳しく批判された一方で、東大のバリケードに単身乗り込んで、173時間軟禁されながら学生と夜を徹して議論した保守派教授・林健太郎が高く評価された。

また当時の全共闘運動では「連帯を求めて孤立を恐れず」がスローガンになっていた。これは二つのことを意味している。一つは、既成政党やセクトの枠にとらわれるのではなく、まず個人が自らの力でものを考えていくことである。

当時の全共闘の学生たちは日本共産党の青年同盟である「民青」を嫌悪したが、それは「民青」が党の指示に従い自らの主体的な意思を有していないと思われたからだった。当時の全共闘運動を牽引したのは「ノンセクト・ラディカル」の若者たちであり、いわば大衆化した既成社会を拒否し、もう一度ひとり一人が自らのアイデンティティを回復する行為だったのである。

そして東大の学生たちは、素直に卒業して管理社会の支配者になってゆくことを拒否し、大学生である自らの立場を「自己否定」した。

だが、アイデンティティの確立は他者からの承認を必要とする。そこで求められたのが「連帯」というもう一つの意味だった。評論家の大野努が行ったインタビューで、当時の学生はこう答えている19)。

“「クラス討論とストライキを通じて、われわれははじめてクラス単位に人間的な団結と交流を得ました。全学ストを通じ、四年の試験拒否を通じ、さらに本部選挙を通じ、この団結を全学に拡大しました。つまり、新しい方向性をもった団結の拡大が目標なのであって、本部選挙自体が必ずしも闘いの目標ではないのです。こうした考えでわれわれは、“新入生の受験拒否も辞せず”という方針をとったのです。受験阻止は、常識的にはいままでの社会的なつながりを断ち切ることですが、その衝撃を通じて、そこに新しい質の団結をつくりたかった。”

http://srysrysry.blogzine.jp/meniutsuru/_1960_/index.html

方法論として、運動から消費にシフトし、作品の中で描かれる学生生活も戦闘、恋愛、部活、学園祭、生徒会等々、様々だけれども、共通しているのは学生生活を通じて何かを成し遂げようとする事であり、つまり自分やその周辺が、いかに変わり成長し、新しい段階に進んでいく革命物語である。*2
私達の今の社会もまた、流動化していく労働や人間関係の中で、効率性や社会の規則に飲み込まれながら、自らを見失ったり、またはオタク趣味がゆえに孤立し、排除され孤独にさいなまれたりする。
ゆえに、だからこそ物語を通して、登場人物や、それを消費する私達はアイデンティティを確認したり、見つめなおしたりするのではないのでしょうか?
いわば革命の疑似体験の疑似体験。

まとめると

全共闘の流れを受け継ぐオタク達*3は、学校という『社会』の中で自分やその周辺の『革命』を必要以上に求めるが、*4失敗したり、またはある程度成功はするも、その思い出に執着するので、様々な作品の中で学校を舞台にした革命物語を指向し、それを通してアイデンティティを回復するという事である。
かつて全共闘世代が、革命に破れ、空想の世界に夢を見ようとしたように・・・。*5


ってな事を「まなびストレート!」を見ていて思いました(笑

まなびストレート!」

まなびストレート!」って、私が思うに全共闘運動や「ビューティフルドリーマー」も知らず、または同人制作やコミケをはじめとする同人誌即売会やオタクイベントに参加するほど、濃くは無い、または濃くなれない、ライトな若いオタクの為のアニメじゃないかって思うのですよ。
若くてライトなオタクの為に、自分達がかつて経験した革命やお祭りの楽しさを伝える為のアニメであり、それを凄く分かりやすい形に描こうとして、あのような形になったんじゃないかと。
ゆえに、あえてご都合主義的だったり、葛藤が希薄だったりするけれど、一番伝えたい事は祭りを創り参加していく事への楽しさだったり、「友達から仲間へ」というキャッチコピーが表すように、自己の確立と連帯する事なので、その辺は余り深く掘り下げないのじゃないのかと私は思うのです。
あ〜うん、まさにユートピア

*1:血というか文化というか、行動様式というか

*2:そもそも全共闘運動も、元は自分達の学校の変革を求めた運動から始まる。

*3:全共闘世代は現在のサブカルチャーやオタク的カルチャーを形作った「プレ・おたく世代」

*4:均質化された学校という空間においては、そこから「どう距離を取るのか」が最も共有されやすい「差別化」の方法とも言える

*5:この空想世界への逃避がSFやら、サブカルチャーオタク文化が構築されていくわけです